検温から見る「実体的正義」

こないだ、子供をB&Gのプールに連れて行った。職員の方は入館する人、一人残らず検温チェックに必死のようだ。

支所でも「〇〇℃以上の方は入場ご遠慮願います」と掲示してあるのを見ると少し残念な気持ちになる。それは支所の特性上、そこでしか出来ない手続きだからだ。

民間企業や飲食店などは代替手段が可能だが、行政手続きは隣町の支所では出来ない。

施設を運営する者は「施設管理権」で写真撮影禁止や常連苦情顧客の排除などが出来る。

もちろん体温による入場はご遠慮というのも可能だ。遠慮と優しく表現されているが事実的には禁止であろう。

数字を用いてラインを引くのは一見、科学的知見のようにも感じるが、日新医学のデータによると日本人の体温、73%の人は36.89℃±0.34℃の範囲でかつ約2%の人が37.5℃以上となっている。

月経周期による変動幅は0.5℃、1日の体温幅は1℃などを考慮すると、一律に入場をご遠慮するのは乱暴な話だろうと思う。

このデータを真に受けると支所に来た方の2%超が行政手続きが出来ない事になる。毎日膨大な手続きがあるわけで一人や二人ではないだろう10人、20人と多いはずだ。

では柔軟に対応してくれるのだろうか?「体温が高い方はお声かけ下さい」とオプションの掲示は無い、となると検温に至ったプロセスは正しいかと疑問が出てくる。

そう思うのは私だけやろか?...

体温による一律の入場規制は「実体的正義」=「結果の正しさ」に重点が置かれているようだ、結果とは厚労省の示すガイドラインなどからであろう。

まず、

・強制検温するのが正しいか
・37.5℃が正しいか

という議論があるはずだ。お上が示しているのだから、そらぁするのが当たり前でしょ!と考えてしまうとその時点で思考が停止してしまう。

社会には様々な人がいる。「公共性」「公平性」「自由」という観点から意見の相違があって当然だ、たとえ非科学的な理由であってもお互いを理解しあう寛容さが必要だろう。

「正しい派」と「正しくない派」の意見が出尽くすまで時間を決めて議論が必要だろう、ここで重要なのは最終決定者はどちら側にも付かず議論を聞くことだ。

7:3や5:5といった雰囲気は伝わってくるものだろう。

5:5ともなれば「実体的正義」(結果の正しさ)よりも「手続き的正義」(結果へのプロセスの正当性)の方が信頼性は高い、それは異なる意見が議論した結果という基礎があるからだ。

民衆の思いは多様な人物によって構成されている。反対意見や非科学的な意見、感情的なもの。それら全てが和になり社会を構成している。和の中心に答えを求めるのは民主主義のやり方だ。

「手続的正義」においては仮に判断ミスをしたとしても責任を追求される事は少ないだろう、それは異なる意見が議論した結果に基づいて判断した結果だからだ。(責任を逃れるという意味ではない)

と、

うんちくばかり並べたが、「今日の体調はいかがですか?」と声かけするのが一番良い方法だと感じた。

税務申告のように相手の申告が正しいという税務署の考え方に似ている。