料理が好きになる

毎日、朝食から始まり昼食、夕方になると「今日の夕飯なにしよ?」と毎日悩んでいる。作る時間と比較すると食べるのは一瞬で、日々のルーティーンに組み込まれた「食事」というのは感謝されることはない。少しチャレンジして新しいメニューで失敗すると、ダメ出しが出る。チャレンジした事を評価する場所ではなく、美味しさの結果論をテーブルで判断される。

 

ビジネス用語で「テーブルに乗せる、上げる」と言うが、毎日が判断される気分になる。料理がネガティブ要素のかたまりだと感じていたときに「山田悠史 最高の老後」という本を読んだ。

 

彼は医師で高齢者を診察する際、必ず聞く事がある。「自分の食事は作っていますか?」診察するなかで元気な高齢者の共通点は自分の食事は自分で作っているそうだ。男女の平均寿命の差も関連している可能性があかも、研究エビデンスはないものの現場の感覚だそうだ。

 

なんとなく納得できる。毎日の食事はコスト、時間、栄養の中央を狙っていく。そこに子供の食べれない物の制約や実際に買い物に行く時間、PDCAの繰り返しで頭を使い、体も動かす。

 

たまに作るパパ料理とは頭の使い方が全く違う、目的の料理を作るのと、残り物を駆使して作るのでは、悩む度合いが倍ほどあるのではないだろうか。(パパ料理が悪いという意味ではない)

 

毎日悩む料理も寿命を延ばしていると考えれば気持ちが楽になる。便利な社会、非効率はどんどん排除され惣菜や冷凍食品などが棚を占領しているのも時代を写しているのだろう。

 

いつも通る道、足元に咲いている花には気付かないという。意識は職場にあり、心 ここにあらず。そのような状態ではないだろうか。

 

日々の生活を特急電車から普通や急行に乗り換え「少し悩み」「少し時間をかけ」料理が美味しくできたときには喜び、又は失敗は受け入れ、人生の足元の花を楽しむ事ができれば豊かな、そして結果的に長生きな生涯を送れるのではないかと思う。