ある日、娘と話しをしていた。
たわいもない日常の会話、その時スマートフォンの通知で会話が中断された。
このままではいけないと感じた。
かまぼこ板ほどのスマホは、目の前の世界を奪ってしまうツールだ、ブラックホールのように画面へ吸い寄せられる。人間の欲求を研究し尽くし、1秒でも長く画面に引き付けるように設計された人類史上のヒット商品だろう。
人間の欲求を研究し、計算し尽された世界トップクラスの頭脳が考えたスマホ。
自分のなかで挑戦したくなった。スマホに時間を奪われない生活とはどのような感じなのだろう。色メガネを外したように見るもの、感じるものが変わるのではないだろうか?この世界トップクラスの頭脳で作ったスマホに対抗できるのだろうか?
ToDoリストは手書きに、ID決済はリアルのクレカに変えた。SNSやニュースのアプリなどは入っていない。通知はオフ、ほぼデフォルトアプリになりカバンの中にしまった。
想定したとおりすぐに禁断症状が現れた。情報に触れておきたい、まるで地球の公転から置いておかれ、宇宙空間にポツンと立っている気持ちになった。世界は今日も進んでいる。真っ暗な宇宙に取り残されているように感じた。
よくテレビなどでアルコール依存や薬物依存などが報道されている。なんてバカな人だろうと思っていたが自分も同じ状況だ。スマホに目を落とす多くの人が依存症とまでいかないものの、その事すら気が付いていないのではないだろうか。
進化し続けるテクノロジー自体は善でも悪でもないと思う。オードリータンは「テクノオジーの奴隷になってはいけない」と、いう彼女もスマホを持っていない。
あえて悪を探すとすると、テクノロジーの上に乗っかる巨大テック企業だろう。彼らは沢山の広告を見せて何かを売ろうとするのが目的だ。その手段でSNSやアプリなどが使われている。だがほとんどの情報は自分とは関係がなく、すぐ知る必要がないものだ。
それでも人生を変える転換点だと信じて1週間、1か月と続けていくと徐々に慣れるもので、もう私の生活にスマホは必要なくなった。一切見なくなり、いつのまにか電池切れになっているのを充電するのが面倒になってきた。
ただ、それでも世の中はスマホを中心に周っている。学校からの連絡や二段階認証に必要だ。私のこれからは、必要なくなったスマホとどう付き合っていくかを考えなければいけない。理想を言えば解約したい。だが社会インフラに組み込まれてるのでしかたなく持ち歩く。
人生の転換期を迎えて感じたのは、1日の時間が少し長く感じた事だろう。スクリーンタイムの時間がそのまま増えた感じた。日常生活は、すぐにやる必要が無いが、やらなければいけない事であふれている。草抜きや、不用品の処分、夕飯の一品、いずれも実はそんなに時間はかからない。スクリーンタイムの時間でできてしまう事ばかりだ。
目の前のリアルが見えるようになった。アスファルトの割れ目、風が吹けば空の雲を見上げ、落ち葉が舞えば木を、花の香がすれば周りを探す。子供との時間も増えた。こんなに解放され、時間が増え、本当の自分と向き合えるのであれば、もっと早くからスマホを絶っていたかった。
だれもが時間が一番大事といい、タイムパフォーマンスを優先して行動している。そういいつつ、スクリーンタイムの時間は増え続ける。無駄に使った時間は問題にせず、残った時間をどう効率よく過ごすかに重点が置かれているようだ。草抜きするときは根っこから抜く、文字通り根本から問題を解決しないと同じ事の繰り返しだ。
目の前の事は、今、自分のみが体験できる貴重な瞬間だ。退屈なんかじゃなく今まで向き合わない自分がいただけなのかもしれない。