反省した

中学入学を手前に、そろそろ進路に興味を持ってほしいと思っている。「自分の好きな道に進みな」と言った。私は、進学や就職などの過程で自分にとって一番心地よいポジションを見つけてほしいという意味で言ったが、子供は〇〇になるといった職種を決めるように受け止めたらしい。意図を伝え、理解してくれたようだ。
周りにいないだろうか?専門分野を学び、全く違う職種で働いている人が、無理もない、厚生労働省が公表している職種は18725種類もある。一つを選ぶという事は0.005%の中で生きていく選択をするという事だろう。それを人生の前半で決めるのは少々無理があるのではないだろうか。
5歳はパン屋さんでいいと思う、その年齢ではそれが全てだ。10歳、20歳と歳を重ねるにつれて世界は広いと感じるだろう。きっと何かを見つけ、自分のモノにするタイミングがあるはずだ。偏差値の賢さではなく、芽を見つける地頭がよくなってほしいと思う、正解ありきではなく、問いを持ち、多様な視点で考える事が正解なき社会の歩き方だろう。
人生の歩き方とは不思議な物で、いかようにも近道ができたりする。皆が大通りで競い合うのを横目に、少しの勇気を出し近道へ進み、皆より早くゴールする事も可能だ。
子供には、大通りも、小道も、近道もあることを教えたつもりだ、本人が選択し進んで行ってくれたら良いと思う。

大家族は何人から?

年末のテレビで大家族特集が放送されていました。

 

ダメ元で「大家族は何人から?」という質問をBingとGoogleに投げてみたが、予想通りカチッと納得できる回答は得られませんでした。

 

定義が無い物や、WEBページとしてコンテンツが不足している質問は生成AIは弱い。

 

ということは、カチッと決まっていない分野を見つけて、自分の解釈としてコンテンツを自身のホームページで投稿し続けると生成AIが吸い上げてくれる可能性が高い。

 

では「大家族は何人から?」の質問に対してはどのように筋立てればよいだろう?

 

厚生労働省、令和4年国民生活基礎調査によると児童のいる世帯18.3%を100%とすると、1人49%、2人、38%、3人以上13%となり、相対的に3人以上の割合が低い、集計方法が3人以上となっており、4人の項目が無い事から4人は更に低いと推測できる。

 

相対的に大家族の定義は、子供の人数が4人以上、父、母を含めると6人と定義できる。

 

生成AIは18.3%を百分率に直したり、統計データに4人が無い理由は推測できない。ヒトであればグラフの流れを見れば3人より4人が低い事は容易に推測できる。

 

このように生成AIで不足しているコンテンツを見つけ出し、供給し続けると生成AIのアクセス数が増えるのではないだろうか。ただ、ロボットのアクセスなのでアフェリエイトの収入は期待できない。

 

爆発的に増える生成AIのソース元が不足している状態が続くのではないかと推測できる、ソース元へのメリットが出る構造変化が必要だろう。

 

参照したソース

厚生労働省 令和4年国民生活基礎調査の概況

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa22/dl/14.pdf

 

排除される仕組み

国勢調査によると全国約23万ある自治会の会長職の女性の割合は5.4%に過ぎない、自治会の役割は地域の安全・防災・福祉・まちづくり・文化・スポーツ振興など、住みよい環境のためには重要な役割だ。

 

あらゆる物事を男性、女性で一緒に決めていくジェンダー平等社会であってほしい。

 

「女性頑張れ」という一方的な押し付けではなく、仕組みで排除される女性。

 

例えば内会長を決める投票用紙は男性の名前がズラッと並んでいます。昔からの慣習で世帯の長である男性の名前を記したものと思います。内会長から選ばれる役員は自動的に男性のみになります。このような慣習が長年続き、男性だけで物事が決まっていくのが今の実情ではないでしょうか。

 

意思決定においても、男性は「白黒ハッキリ」・女性は「ほどほど」の傾向があるようで、どちらも一長一短、時と場合、男性のスパッと決めるのは気持ちが良い、後に振り返って「もう少し様子を見ておけば」と思う事も多い。

 

自治会が扱うデリケートな問題についての意思決定の議論には男女比50:50が好ましいのではないだろうか。

 

そのように感じたのは、英BBCの取り組み「50:50(フィフティー・フィフティー)The Equality Project」キャスターや記者、専門家の出演男女比を半々にしている。

 

専門家の取材で科学論文の責任筆者の多くは男性が多い、共同筆者に女性がいれば女性に取材を申し込む、そうした女性達は研究室にこもって実験を行い、責任者よりも実地経験が多く深いレベルでの取材ができるそうだ。これからの論文の筆者は男性、女性を明記しているのが良さそうだ。

 

とりまく社会では表面的には「ジェンダー平等」と言われ、少しずつ周知されてきたように思う。一方で女性への機会が与えられず、排除する仕組みが組みが残っているのも事実です。

 

BBCの取り組みは、キャスターが運転中にBBCラジオを聴いていると男性の声が多い事に気が付く、その方の提案で50:50The Equality Projectが始まったそうです。

 

どのような組織においても、このキャスターのように提案する者がいる、権限を持つ者は小さな声と思わず社会の動向と照らし合わせる事が大切だと感じます。

 

残念ながら和具自治会の役員は男性100%だ。提案したキャスターのようなファーストペンギンが現れることに期待したい。

私的領域の調和

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息子は小学6年生になり中学校の事を考えるようになってきた。

 

「部活は何がしたい?」と聞くと特に無いと言う。

 

志摩中学校は運動部が中心でいずれかの部に強制入部になるらしい。

 

どちらかと言うと運動は苦手なタイプだ。iPadで絵を描いたり、詩を書いたり、GarageBandガレージバンド)アプリで曲を作ったり、気になった時事問題を調べている。体を動かすのが苦手な分、頭の運動は好きな方だと思う。

 

文部科学省の「部活動指導の在り方について」では「部活動は生徒の自主的、自発的な参加により行われる」とされ「任意での活動で義務教育では無い」としている。

 

最終的な判断は学校に委ねられ、志摩中学校ではいずれかの部活に入る事になっています。先生への負担が多いと騒がれ、他方では自主的な参加を推薦しつつ、現場では強制と、どうもおかしな状態が続いているようです。

 

日本の教育政策の原点は「家庭が原点、全ての教育の出発点」と文部科学省が示し、教育基本法においても「家庭が子供たちに対して行う教育を尊重し、学校教育と連携して子どもたちの健全な育成をはかる」としている事から、家庭が主で学校がサポート役というのが理想的姿だと感じます。

 

核家族や共働きが増えるなか保護者が求めるものは、長い時間見てくれる場所へとニーズが変化し子供たちに暇を与えないとばかりに、部活動や宿題を増やしていったのではないでしょうか。

 

少し残念なのは核家族や共働きの家庭が多いとはいえ、そうでない家庭が忘れられているようにも感じます。私のように家で仕事ができ、就業時間が決まっていない者にとっては放課後に勉強を見たり、習い事の送迎などはできます。

 

一律に出される宿題は反復学習という意味では良いと思いますが、その子に合った内容かというと、そうでは無いでしょう。やる事が目的となり「宿題は終わった?」「先にやる事やる!」どこの家庭でも言われているのではないでしょうか。

 

フランスは日本と同じ民主主義であり自由、平等、法の支配では同じ理念を持っていますが、考え方は正反対とも言えます。

 

フランスでは1956年から宿題が法律で禁止されているようです。フランス革命の理念が「自由」「平等」「博愛」ですが、その「自由と平等」を侵害するという考えです。

 

学校は公的領域、家庭は私的領域であり、義務教育である公的領域の宿題を家庭の時間にするのは私的時間の侵害と考えられているそうです。バサッと両断するような考え方は少し寂しいような感じもしますが、ステキだと思います。子供も一個人であり私的時間を主張するのは当たり前、そのような考え方もアリでしょう。

 

宿題をしていないお国柄だから教育水準が低いのでは?と思ったがOECD平均のほぼ中央で特段低いわけでもない。

 

と、部活の話にもどり...

 

本来、放課後は私的時間であり、自由に使う事ができるはずです。有料の塾に通わせたり、文化・芸術の習い事もできるはずです。もちろん部活動の良い所もあり、社会性や忍耐力、達成感などは体験させてやりたいとも思います。

 

大人でも転職が当たり前になっている時代で、多様性を尊重し一人一人の子供を大切にすると言いながら「3年間、イヤでも一つの部活を続けなさい」というのは少々ムリが過ぎるのではないでしょうか。多様性を尊重する時代となりつつあるなかで一律で入部の選択肢は、部活動の有り方のコンセンサスがとれているとは言い難いでしょう。

 

部活動は緩い感じで入、退部自由で前向きな帰宅部もOKぐらいにしておくのが丁度よいかとも思います。そうすれば習い事に通いつつ、空いた日は部活動に参加できる。

 

入、退部自由にすると需要のニーズと供給のニーズのミスマッチが出てくるでしょう。あえて出す事によって不人気部は活動を終わり、時代とともにプログラミングなどの新設要望があるものを採用するなど、先生達はそのような集計や調整などが主業務で良いと思います。何も専門性を持たずとも何をするかはチャットGPTに聞いたらよいとも思います。

 

日本では義務教育と私的領域の区分があいまいだと感じます。悪いという意味ではなく誰の責任?と区分に関わらず、問題点を同調し解決しようという社会システムの一部が心理的に組み込まれているのでしょう。一律に何かを課すから一人一人に合うやり方で学校と生徒との調和がとれている状態がステキだと感じます。

 

市場の体温

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ここ最近日経平均が上昇している。

 

ニュースなどで「今日の日経平均株価は...」と耳にする。ザイオンス効果で何度も繰り返される上昇ワードは好感と感じてしまう。

 

市場の体温測定で日経平均を使うのはややムリがあるようで、一部銘柄への偏りや市場カバー率70%に留まる点たろう。

 

NHKや民放各社は必ず「日経平均は...」と口を揃える。英BBCまでも同じだ。驚くのは経済専門のWBS日経CNBCまでもが同じという事だろう。CNBCは日本経済新聞社なので無理もない。

 

世界の株価指数を見ると自国の算出会社を優遇する傾向があるようだ。市場の評価基準を他国の会社が算出しているとは感じが悪いではないか。

 

NYダウ平均(ダウ・ジョーンズ社 米国)

S&P500(S&Pダウ・ジョーンズ・インデックス社 米国)

日経平均日本経済新聞社 日本)

TOPI(日本取引所グループ 日本)

FTSE100(ロンドン証券取引所グループ 英国)

DAX(フランクフルト証券取引所 ドイツ)

 

ではここ最近の株価上昇は、何と比較すれば良いだろうか。おそらく全世界でインデックス指数を算出しているMSCIが中立かつ公平なのではないかと思う。インデックスの採用基準が全世界で、ほぼほぼ同じで時価総額の85%まで広がるのが良い。

 

MSCI Japan Indexと日経平均を比較するとやや過熱ぶりが分かる。

 

株価収益率

日経平均 14.49倍

MSCI Japan Index 14.16倍

 

現在の株価は5年前にやっと戻ったということだろう。

 

東証には数多くのETFが上場しているがMSCI Japan Indexに連動するものは上場していない。投資家の需要が少ない事を映している。日本銀行も株式を買い入れる時には日本の指数算出会社の日経平均やTOPIXをメインに買い進めている。iシェアーズ MSCI ジャパン ETF(EWJ)という米国ETFはあるがドルで買う必要がある。円で活動する企業をドルなどでは買えないだろう。

 

日本市場のガラパゴスとも言える状況は、例えると医者が治療計画を立てる時に血液検査などはナチュラルなデータを求めるだろう。それは表面的に良いデータからは最良の治療計画は立てられない。という事に似ている気がする。

 

ただ、それが悪い事だとは感じていない。日本市場とはその様な特徴であることを自分が認識していれば良いと感じている。MSCIを基準にして他をスルーできる度胸を持ち続けたい。

 

 

先生が変わる

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調べ物といえば「Google先生」だった、最近は「Bing先生」に変わった。宿題をするときもBing先生に質問すると満足できる回答をしてくれる。同じ質問を先生にしても、ここまで回答できる先生は少ないだろう。

 

使い始めて感じたのは広告の少なさだ「PR」や「スポンサー」など上位に表示される物が無いChatGPTに関しては広告は少ないように思う。

 

よくよく考えてみればAlphabetは収益の70%は広告、Microsoftの収益はOffice・クラウドのAzureで収益の柱が違う、広告に頼るビジネスモデルではない、表示させなくても良いという事だろう。

 

Bing先生が主役になるのだろうか、今が転換期だろう。ストックビジネスといわれるブロガーの多くはGoogle AdSenseを貼り付けている。

 

ブログを見にきた人に広告を見せる事で収益が立つ。それがChatGPTがテキストを読み込んで必要箇所のみを引用するのであれば人間が広告を見る必要は無くなる。ブロガーからするとAIによるアクセスはあるが広告は一切クリックされない状況となるだろう。

 

Googleが対抗サービスを出せないのは構造上、Gmailなどの無料ツールを提供する代わりに広告を見せるビジネスモデル、ユーチューバーやブロガーも同様に集客に使われている。

 

かといってChatGPTと同じサービスを始めたとしても広告元のコンバーションが下がり広告主の費用対効果が希薄化するのも目に見える。

 

Googleは検索市場の90%を独占している。これからは「検索」ではなく「答え」、アンサー市場をMicrosoftが先頭に立って行くのだろうか。これほど短期間で主役が交代する時代となった。広告市場の中で生きるGoogleがどのように出るのか見ていきたい。

 

投資家目線で洞察するとMicrosoftは有望な投資先なのだろうか。数年という時間軸では有望だろう、数十年ではどうだろう。簡単に主役が交代する市場に生きる企業は、そのリスクを背負い続ける運命にある。つまり、10年後に生き残っている確率が高いのは「アプリ」ではなく「アイス」なのだろうと思う。

料理が好きになる

毎日、朝食から始まり昼食、夕方になると「今日の夕飯なにしよ?」と毎日悩んでいる。作る時間と比較すると食べるのは一瞬で、日々のルーティーンに組み込まれた「食事」というのは感謝されることはない。少しチャレンジして新しいメニューで失敗すると、ダメ出しが出る。チャレンジした事を評価する場所ではなく、美味しさの結果論をテーブルで判断される。

 

ビジネス用語で「テーブルに乗せる、上げる」と言うが、毎日が判断される気分になる。料理がネガティブ要素のかたまりだと感じていたときに「山田悠史 最高の老後」という本を読んだ。

 

彼は医師で高齢者を診察する際、必ず聞く事がある。「自分の食事は作っていますか?」診察するなかで元気な高齢者の共通点は自分の食事は自分で作っているそうだ。男女の平均寿命の差も関連している可能性があかも、研究エビデンスはないものの現場の感覚だそうだ。

 

なんとなく納得できる。毎日の食事はコスト、時間、栄養の中央を狙っていく。そこに子供の食べれない物の制約や実際に買い物に行く時間、PDCAの繰り返しで頭を使い、体も動かす。

 

たまに作るパパ料理とは頭の使い方が全く違う、目的の料理を作るのと、残り物を駆使して作るのでは、悩む度合いが倍ほどあるのではないだろうか。(パパ料理が悪いという意味ではない)

 

毎日悩む料理も寿命を延ばしていると考えれば気持ちが楽になる。便利な社会、非効率はどんどん排除され惣菜や冷凍食品などが棚を占領しているのも時代を写しているのだろう。

 

いつも通る道、足元に咲いている花には気付かないという。意識は職場にあり、心 ここにあらず。そのような状態ではないだろうか。

 

日々の生活を特急電車から普通や急行に乗り換え「少し悩み」「少し時間をかけ」料理が美味しくできたときには喜び、又は失敗は受け入れ、人生の足元の花を楽しむ事ができれば豊かな、そして結果的に長生きな生涯を送れるのではないかと思う。